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平田弘史が語る「宇宙の原理」

平田弘史について

弘史左衛門自画像

平田弘史(ひらたひろし)

1937年2月9日、東京都板橋区生まれ。本名・弘。

1958年、一晩で処女作「愛憎必殺剣」を描き上げ、大阪の貸本漫画出版社・日の丸文庫に即採用され、デビュー。それまで漫画を一度も描いたことがなかったが、以後独学で修練し、貸本短編誌『魔像』を中心に作品を発表する。さらに、劇画ブームのさなか、瞬く間に時代劇画の第一人者となり、『コミックMagazine』『週刊少年キング』『増刊ヤングコミック』『週刊漫画ゴラク』『週刊ヤングマガジン』『月刊アフタヌーン』等の雑誌で活躍した。一方で、力強い毛筆による書も高く評価されており、大友克洋「AKIRA」の題字など数多く手掛けている。

自宅に工房を持ち、趣味の機械工作はプロ級の腕前。シンセサイザー音楽の作曲、映写機の研究・製作を行い、自作のHPで公開中。

2013年、第42回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞。

2017年1月3日~3月26日まで初の原画展を東京・弥生美術館で開催。

 

 【平田弘史略年譜】※()内は年齢

1937年 昭和12(0)

2月9日、東京都板橋区に、父・庄市、母・多可の六人兄弟の長男として生まれる。

1943年 昭和18(6)

板橋第四小学校に入学する。

1945年 昭和20(8)

3月、空襲激化のため、奈良県天理市三島へ転居する。

三島小学校に転入する。言葉が東京弁だったうえ、担任教師に可愛がられたため、クラスの同級生から「平田のエコヒーキ」といじめの対象になる。

父がポンプ水道店を始める。級友に「ヒラポン」(平田のポンプ)のあだ名をつけられる。

機械いじりを好み、小学校高学年時には壊れたラジオの部品を組み合わせてラジオを作り、故障したラジオもすぐに直した。将来の夢は電子工学や精密機器関連の仕事。

1950年 昭和25(13)

天理中学校に入学する。

家業を手伝うため、午後からの授業はほとんど欠席し、中学時代のあだ名は「サボリのヒラタ」。学校新聞に四コマ漫画を生まれて初めて描くが、普段漫画を読むことは全くなく、興味もなかった。新聞部員にはのちにマンガ家となる宮地正弘がいた。

父親の読んでいた時代小説雑誌の挿絵画家・木俣清史に惹かれる。愛読雑誌は電気関係の雑誌。廃品回収業者から集めた歯車や部品を使い、映写機を作る。

1953年 昭和28(16)

天理高校へ入学するが、教師に遅刻を咎められたことを機に、即日退学。翌日から父のポンプ水道店で働き始める。

1954昭和29(17)

9月、父・庄市が急逝する(享年57)。一家の生活を支えることとなる。

1956年 昭和31(19)

悪性の盲腸になり、麻酔なしで手術を受ける。

退院後、自宅で1か月療養したのち、伯父(父の兄天理教鍛冶平分教会会長)と母の勧めによって天理教教団の「修養科」へ3か月間入る。卒業後、大阪の設備会社に勤め、現場回りをする。

1958年 昭和33(21)

春、中学時代の先輩、宮地正弘と偶然会ったことを機に、一晩で描きあげた時代劇漫画「愛憎必殺剣」でデビューする。以降、『魔像』に作品を発表して突出した人気を得る。4作目くらいから本名に「史」を付け加えペンネームとする(「弘志」としたこともある)。他の漫画家とのつきあいはまったくせず、ひたすら収入を得るために漫画を描く。

1960年 昭和35(23)

時代考証の資料を探しに大阪・千日デパートの古書即売会に通う。入手した古い挿絵のスクラップをもとに勉強し、デビュー以降変化させてきた作風を、挿絵調の劇画スタイルにする。他の漫画家の作品は全く見ることなく、天理図書館に頻繁に通い、資料を調べて時代考証を猛勉強する。

1961年 昭和36(24)

天理市別所町へ転居する。

1962年 昭和37(25)

『魔像』別冊の「血だるま剣法」が部落解放同盟からの抗議を受け、回収される。日の丸文庫の社長専務とともに10冊程同盟に持参したが、それ以外平田は何も聞かされなかった。

1964年 昭和39(27)

この頃、四男の弟の庄蔵(現・マンガ家のとみ新蔵)が高校を出て1年後からアシスタントを務める。貸本業界の衰退により、貸本漫画の発行部数が減少する。弟から「家計は糞マンガ描いて自分が守るから、兄ちゃんは東京へ出て新開拓してくれ」と励まされ上京を決意する。

1965年 昭和40(28)

3月、知人の葬儀の席で芳子と出会い、後日すぐにプロポーズする。

5月、貸本漫画に見切りをつけ新たな仕事を探すため、上京。交流のあった佐藤まさあきのもとに身を寄せる。

1966年 昭和41(29)

5月1日、芳子と結婚する。奈良市から国分寺本町に転居する。

8月より、少年画報社『週刊少年キング』と芳文社の『コミックMagazine』に劇画を描き始める。

10月、国分寺東恋ヶ窪に転居する。

1967年 昭和42(30)

2月13日、長女誕生。

1968年 昭和43(31)

中野区へ転居する。「劇画ブーム」となり、前年に引き続き『コミックMagazine』掲載の劇画が好評を得る。

1969年 昭和44(32)

1月より『週刊少年キング』(少年画報社)にて「片目の軍師」「大地獄城」「御用金」「人斬り」を続けて連載する。

3月、杉並区井草に一軒家を購入し転居する。

4月13日、次女誕生。

11月23日号より『週刊少年キング』(少年画報社)にて「弓道士魂」の連載開始。

1970年 昭和45(33)

アシスタントをほとんど使わず、時代考証を追求し、納得するまで精魂こめて描きあげるため遅筆となり、「弓道士魂」の毎週の締切に追われ、体調を崩す。秋以降仕事量を減らしたため、翌年、経済的に困窮する。

1972年 昭和47(35)

3月10日、長男誕生。

『アサヒ芸能』(徳間書店)にて「死神夢太郎」「追われ旅」「隠された長脇差」「八州あぶれ旅」、『ピックアップ』(少年画報社)にて「冥府の文吉」の連載開始。

1973年 昭和48(36)

7月16日号より、『漫画ベストセラー』(KKベストセラーズ)にて「首代引受人」の連載を開始するが、雑誌休刊のため4か月で終了。

1974年 昭和49(37)

1月6日、次男誕生。

妥協を許さない信条から締切を守れず、創作への情熱も薄れて、仕事量が減少する。

1975年 昭和50(38)

3月6日、三女誕生。

仕事減少により生活が困窮するが、秋頃に『増刊ヤングコミック』(少年画報社)からの原稿依頼を受け、以降状況が好転する。

1976年 昭和51(39)

『増刊ヤングコミック』(少年画報社)に作品を発表し始めたことを機に、他社からも注文が来るようになり、劇画家として復活する。

1977年 昭和52(40)

6月2日号より、『増刊ヤングコミック』(少年画報社)にて「薩摩義士伝」の連載開始。

1978年 昭和53(41)

アメリカのサンディエゴで開催されたコミック・コンベンションに参加し、約40点の原画を出品。大絶賛を受ける。

1979年 昭和54(42)

2月に『増刊ヤングコミック』が休刊したため、7月26日号より、「薩摩義士伝」の連載を『週刊漫画ゴラク』(日本文芸社)に移す。

1980年 昭和55(43)

1月号より『カスタムコミック』(日本文芸社)に「日本凄絶史」を描く。

1982年 昭和57(45)

6月4日号で「薩摩義士伝」未完のまま連載終了。再び劇画への意欲を失い、1年ほど電気工業の仕事をするが、経済的に困窮する。

1983年 昭和58(46)

6月より、『コミック・ノストラダムス』(祥伝社)にて「黒田・三十六計」の連載開始。

8月より天理教団発行の新聞「天理時報」に、「教祖絵伝」を連載開始。教祖の教えと教団の教理に隔たりを感じはじめ、翌年12月に連載を中止し、これを機に教団から離脱する。

1985年 昭和60(48)

1月号で「黒田・三十六計」、未完のまま終了。

1986昭和61(49)

シンセサイザーに魅せられたことを機に、劇画の創作意欲が薄れ、ほとんど描かなくなる。

1987年 昭和62(50)

1月、アメリカのエクリプスより、『SAMURAI(SON OFDEATH)』(シャーマン・ディボーノ原作)発行。

5月より、日本文芸社から、代表作を収録した箱入りハードカバー、全8巻の『平田弘史選集』(装幀:大友克洋)が順次刊行される。

10月、静岡県伊東市富戸に家を新築し、転居する。

1988年 昭和63(51)

11月30日母・多可が逝去する(享年77)。

1989年 平成元(52)

社会に対する不満や怒りをぶつけるこれまでの創作態度に疑問を持ち始め、作品を描くことができなくなる。

1990年 平成2(53)

経済的にも追いつめられ、4ページ1話読み切りのエッセイ風劇画「お父さん物語」を描く。2月26日号より『週刊ヤングマガジン』(講談社)にて連載開始。連載中「人生如何生きるべきか」を自らに問い続けるうち、今後の方向性が見え始め、以後新境地を開くきっかけとなる。

1991年 平成3(54)

9月11日号より、『ミスターマガジン』(講談社)にて「異色列伝無名の人々」の連載開始。

1993年 平成5(56)

11月号より、『ミスターマガジン』(講談社)にて「怪力の母」連載開始。

1995年 平成7(58)

暮れ、「怪力の母」連載中にマッキントッシュ・コンピュータを導入し、単行本第参巻の表紙絵をコンピュータ作画で行う。コンピュータを使った作曲も行う。

1997年 平成9(60)

4月号より『月刊アフタヌーン』(講談社)にて「新首代引受人」の連載開始。

マックでの作画熱が高まり、様々な手法を模索する。『MACLIFE』9月号に「電撃漫画術」と題し、平田のコンピュータ作画の技法が紹介される。

1998年 平成10(61)

『月刊アフタヌーン』1月号の「新首代引受人」第3話「誇」で、全編コンピュータによる作画を試みる。

マックエキスポで出会ったイラストレーターたちと意気投合して、当時ようやく、莫大な費用をかけなくても、スキャニングしてパソコンで品質を保ったデータを作ることが可能になってきたので、平田劇画の貸本期作品をデジタルで残そうと「平田弘史貸本期作品復刻委員会」が設立される。

12月、日の丸文庫「魔像別冊」から厳選して、完全復刻版『平田弘史時代劇画創世記傑作選〈全5巻〉』(四十万石の執念・復讐つんではくずし・我が剣の握れる迄・刀剣・侍)がラピュータより復刻・発売される。

これを機に平田弘史劇画が再評価され、各出版社から平田弘史作品の復刊や復刻企画が始まる。

1999年 平成11(62)

7号より12号まで、『アックス』(青林工藝舎)の扉に描き文字を1年間描く。

2001平成13(64)

1月号より『COMIC乱増刊』(リイド社)で、未完だった「黒田・三十六計」を第一計から再スタートさせる。2003年からは『COMIC乱TWINS』(リイド社)に移り、現在も不定期連載が続く。

5月、ウェブサイトを自作し、公開を始める。

マックでの描画速度について試行錯誤を重ねるが、現行のハードおよびソフトでは限界があるという結論に至り、ペンで原稿用紙に描くスタイルに戻る。

2003年 平成15(66)

5月、ラピュータより初の画集を出版。

2004年 平成16(67)

12月、フランスのデルクール社より『薩摩義士伝』刊行。以後海外での出版が相次ぐ。

2005年 平成17(68)

5月号より『COMIC乱TWINS戦国武将列伝』(リイド社)にて「信長公記」連載開始。

2007年 平成19(70)

5月28日~6月7日、フランスのアミアン大学図書館にて開催のマンガフェスティバルで紹介される。

2008年 平成20(71)

アングレーム国際バンド・デシネ・フェスティバルにて「弓道士魂」が遺産賞にノミネートされる。

2009年 平成21(72)

1月~3月、フランスの第36回アングレーム国際バンド・デシネ・フェスティバルにて「無名の人々異色列伝」がノミネートされる。現地に赴き、サイン会・作品展示等行う。

2010年 平成22(73)

7月11日~18日、23日~8月5日モナコ・モンテカルロ市の招待でグリマルディ・フォーラムにて、モナコ王と常陸宮ご夫妻の前で巨大パネルに首代半四郎を揮毫する。また、劇画が数点展示される。

2011年 平成23(74)

10月29日~11月1日スペインのバルセロナにてマンガフェア「第17回サロン・デル・マンガ」に参加。現地に赴き、巨大パネルに首代半四郎を揮毫し、サイン会も行う。

11月7日東京ドームで開かれたイーブックイニシアティブジャパン上場謝恩会に招かれ、巨大パネルに首代半四郎を揮毫する。

2013年 平成25(76)

第42回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞する。長年に亘る全業績に対して贈られた。

2015平成27(78)

11月21日から翌年2月9日まで、京都国際マンガミュージアムにて開催の「青年マンガの世界」に原画ダッシュを出品する。

2016年 平成28(79)

2月2003年にラピュータより出版した画集の復刊新装版を出版する。

4月ギリシャ・アテネのヘレニック・アメリカン・ユニオンにて開催された「COMICDOM CON ATHENS 2016」に原画ダッシュを出品する。

6月ドイツ・ハンブルクのハンブルク工芸博物館にて開催された「Hokusai.Manga.Japanese PopCulture Since1680」に原画ダッシュを出品する。

10月8日から12月11日まで川崎市民ミュージアムにて開催の「青年マンガの世界」に原画ダッシュを出品する。

2017年 平成29(80)

1月3日から3月26日まで、弥生美術館において「超絶入魂!時代劇画の神平田弘史に刮目せよ!」を開催する。

『鬼才!時代劇画家平田弘史その軌跡』(ラピュータ刊)より

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